ご縁のくにの、あたしのひとり言。

晩婚、高齢出産からの子育てをおそらくメインに、島根のこと、山陰のこと、なんだいかんだい、方言混じりで綴ってみます。

どうしたいんだろう。

臨月。


39週に入ります。



台所に立つことは、

容易ではないです。


だって、腹が出っ張ってるから。


後、赤ちゃんへの血液量も増えるから、



少し動くと、以前とは違って


はぁはぁとなりやすい。




そんな時、


弁当箱や、食べ終わった食器を

ポンっと、シンクにただ置くという動作。



やっぱりか、

と思ってみる。




取り敢えず座って深呼吸している時



に、



がんばってよ。




と。


目をやると、

その視線は携帯。


何か、機関銃を連発するゲームを最近ハマっている様子。





悪気ない

本当に全く

悪気の無い


日常的な仕草。



そして、




ご飯は?


ご飯食べていい?



という、



いつもの何気ない、

本当に悪気のない


本能からの、

質問に



今日は、

なんだか切なくなり、



涙が溢れてしまいました。



びっくりしたことに、



過呼吸にもなりそうになりました。



既に横になって、呼吸を整える横で


テレビのチャンネルが変わり、

機関銃のようなゲーム音も聞こえます。


だけれど、

床に横になった


そんな私の様子をみて、

心配して背中を



大丈夫?


ってさすってくれましたが、



わたしの心の針が動かない。。




わたしは何を涙しているのか、


『分かって欲しい』


のか。


だとしたら、


自分ではない、


そもそも別の人に、



この心の不安定さを


どう分かって貰えたら、


私は満足なのか。



何がいけんか教えて


とも言われたけれど、



はぁはぁ言いながら、

しかも泣いてるところで、



何を教えて貰おうとしているのか。


わかれよ

と。


でも、そもそもが、違う人間。


彼は、私では、



ない。




弁当箱を洗って欲しい


携帯を見ながら返事はしないて欲しい


食器を洗って欲しい



結婚して以来、


伝え続けている。




『男はそんなもんだ』



そうなのか?

少なくとも目の前の男はそうであると言っているから、


そうなのであろう。




で、


わたしは遂に今日は、


心の針が動かない。



寝たら、記憶の整理は出来るとしても、



気の持ちよう、

気持ちの、整理、


出来らんかな。



で、タイトルは、そんなこと。



これもblog。


問題提起ではなく、


旦那批判ではなく、




素の自分記録。


ひとりごと。



そんな時も、あるからこそ、



きっと家族になったんだろう。



意味があって、

お互い出会ったんだろうな。

ひとりごと。

来週の今頃には、抱っこしてるかなー。


どうなんだろう。


今夜は、えらい蠢くややこ。



そしたら、

ふっと、この動画をまた観たくなりました。




動物がものすごい時間をかけて経て来た進化の過程を、垣間見れたりもするけれど、



なんか、



これを観ていたら、



目の前で、ご飯食べたり、

おもちゃ片付けたくなかったり、



こっちの思い通りにならないことなんて、



そりゃそうだよな


と、思えてしまう。




大体にして、


意識はしてても、


こちらの意図に関係なく、


気を付けつつも、



私が飲み食いして、


息をしていた中で、



そんな環境の中で、


意図は関係なく、



環境の中で細胞分裂してきて、


生まれてきてごした、


という、



本当に稀有な存在で。




生まれて来れた力は、


寿命が来るまでは



生きる力は持っているであろうから、



人生をこっちが決めてあげる


ことは、そもそも出来なくて。




というか、


私もそうであっただろうし、


そうだし。




生きる力を、そしたらよりどうやって応援出来たらいいかなって。




なんか、思いました。




まだ見ぬ、腹で蠢くひとよ、



だけれど、かあちゃんは


きみに会える瞬間と、


ねえちゃんの時には出来なかった、


産んでからこの胸に抱く瞬間を、



楽しみにしているのだよ( ´ ▽ ` )ノ



そして、どうかしこたま乳を飲んで、


かあちゃんを包み込んでいる、断熱材を


消化してくださいまし🙏笑






Miracle of life

おばあちゃんの誕生日🎂から、、、

やっとこさ、



👶



準備に入りました笑









今日は、

私のおばあちゃんの誕生日🎂





おばあちゃんにとって、



内孫、



長女で、



婿さん取り





であったわたし。





は、



ほんそほんそ(かわいいかわいい大事大事)



で、おばあちゃんにほぼ育てられました。





なので、





わたしにとって



影響力のあった

身近な大人は、







おばあちゃん



母



近所に居たおじいちゃんのお姉さん

(この家にもほぼ毎日行っていた)



父



美容師の叔母と従姉妹



看護師の叔母





でしょうか^_^





おばあちゃんに

よく言われました笑



⬇️



『何でも出来る、賢い子だけんね、ひろちゃんは。何でも1番になるだよ。おばあさん、応援しちょるけん。』



『婿さん取って跡取りになるだよ。嫁に出たら、おばあさん、化けて出ちゃーけん笑笑』







⇧



これらの言葉の捉え方も、

成長につれ、

その時々ありましたけれど、



結婚した38歳までは、

少なからず、



私のアイデンティティっていうものの柱があるならば、

それが立つ土の質そのものだった様な気がします。





だから、





結果的に?、、



私の人生では

晩婚を選んだ



とも私は一つ私だけは自分の口からは言えます。





晩婚がいけないという意味ではないです。







物心ついたころから、

好きになる人が

長男だとあっさり諦め、

次男三男だと、

ラッキー✨





と思っていた記憶を辿ったり、



婿を迎えた友人に



『よかったねー!おめでとう!!』



と全く何も思わず当然かの様に発言していたことを思い出すと、





『思考はうつる』





と、やはり実感するのです。







おばあちゃんは、

ただ、心から

孫の私を可愛がってくれていただけ。

愛していてくれてただけ。





の事。



おばあちゃんの時代からは

考えられなかったであろう、





38歳での結婚で、

しかも嫁に出るという



おばあちゃんが少なからず願った

一つの幸せの形にはまってはないことを、

孫の私に



『させるつもり』



は無かったことは然りです。



『そんなつもりはなかった』、





何気ない、

良かれと思った言葉を



幼少の孫に、



かつて懸命に生き、

戦後泥まみれになりながら、

5人の我が子たちを育てながら

一緒懸命に言葉を

かけていたことは、



咎めたりなんて絶対誰にも出来ません。









もしも私が今、自分の今居る状況に対して、



『○○の存在があったから、

私は今、こんな風になってしまった』





と、



例えばおばあちゃんのせいにしていたとしたら、



あの時おばあちゃんがあんな事をずっと私に刷り込んで居たから、と、



《自分の今ある状況そのものを

おばあちゃんに依存したまま》



であれば、





きっと

わたしたちが育てる娘やこれから出てくる息子も



大人になったいつか、





『あの時の、ママのせいだ』



『あの〇〇があるから、自分は好きな事も、自由に自分らしく生きれないんだ

』



と、もしかしたらなるとした時、





娘、息子は勿論、



その本人たち自身が

自分の体温を感じながら生きるチャンスは

なかなか味わう機会が少なくなるかもしれない





と。







なんか、そんなことを思ったのでした。







頼ることがダメじゃなく、

依存そのものがダメじゃなく、





なんだろう。





自分という、私が

動く心臓の音を感じながら生きる毎日を

とまるいつかその日まで、

過ごせたら、



繋がってきたいのちや時間や、

縁や、人や、家族や仲間や、

自分から出てきたわが子を、



いい具合の距離で見守れるのかな





なんてて、





今日は思ったのでした。







だから、



言葉が出てくる背景、、





要は、



自分の思考を改めて感じて



コミュニケーションを学んでみるのって、

コーチングを学んでみるのって、





自分をひっくるめた

誰かを大切にする一つの手段なんだなと、





思いましたわ。







もし見てくれてるのだとしたら、

天国に行ってから、

今の『ほんそほんそのひろちゃん』を

おばあちゃんはどう見ててくれてるのかなー。





多分、化けて出てきてないけん、



応援してくれてるといいですわ笑笑









#思考はうつる

#今日も長い

#いつものこと